「心が楽になることが幸運」
釈尊は幸福になる道を探されていたので、当然因縁の運、幸不幸などの関係もつぶさに検討されました。
私たちの思い、言葉、行動が善、あるいは慈悲に満ちていれば、それは善業といって、宇宙の業という貯金通帳に記載されます。
一方、思い、言葉、行動が悪、無慈悲から起これば、悪業といって業に記載されます。
先に述べたように善とか悪とは人間が考えたものであり、時代、地域、文化により内容が異なるので、本来業には善業、悪業などという区別はないのですが、わかりやすくするためにこのように述べました。
私は善業とは心を傷つけないこと、心を苦しめないことだと解釈しています。
もし、人の心を苦しめないようなことをする、あるいは人の心が楽になるようなことをすれば、それが善業になります。
善業が幸運を呼ぶのは当然です。
幸運とは何かという定義は難しいのですが、私は心が楽になることを幸運としています。
現代では、地位がありお金があっても、自分の病気、仕事、家族の問題でくるしんでいる人が非常に多いので、不幸な社会といえるでしょう。
さて、善業幸運の関係について禅宗の開祖、達磨大師は「人は何かよいことが起こると有頂天になって喜ぶがこれが間違いなのだ。
今まで業に貯金したものを引き出して使ったようなものである。
だから、このような幸運をただ喜ぶだけでなく、さらに一層、善業を積まなくてはならない。
また、人は不運に巡り合うと非常に落胆するが、それは間違いだ。今までの借金を払ったのだから、借金なしになったと思えばよい。」と言っています。
今苦しいことが起きている、これは業の借金を返したと思うべきだといわれても、自分の悪業がさらに大きなものであるなら、さらに不運は続くかも知れないという恐れをもちます。
一方、よいことが少し起こっても、これで貯金を使い果たしたのではないか、これからは借金のつけがまわってくるのではないかという疑いも生まれてきます。
このように考えると気が休まる閑はありません。
また少しの努力をしても、少しだけしか貯金が増えないのなら、今の運命を変えることができる日は来ないのではないかという気持ちにもなります。
仏教では「因小果大」を教えます。
これは一粒の種から何千、何万の米の実ができるように、小さな因も縁の与え方で大きな果になるという教えです。縁の中でもっとも大事なのは心のもち方です。
行いに慈悲の心をもってすれば、大きな果が得られるとするのです。また、この「因果の法則」を信じて行えば、結果はさらによくなるとします。
多くの人は「祈り」とか「お告げ」に頼り、即座に苦しみから逃れたいと思います。
あるいは「苦難を解決」し、喜びに満ちた日々を送るようにさせてもらいたいと願います。
一方、「因果の法則」にもとづいて努力することは、少しの手元で利息を増やそうというのと同じで、心さえ込めて行うなら、早くよい結果を得ることもできるのです。
「責めず、比べず、思い出さず、浜松医科大学名誉教授・高田明和」
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