インド哲学のある派の生命についての説明をお話して、それを沖聖師の哲学と比べてみましょう。
パタンジャリのヨガの教えは、「魂」と「物質」で構成されています。
「物質」は変化して、そこから心が現れます。
けれども「魂」は変化しません。

「魂」は心に反映し、そうして心は生きたものになります。
心は「魂」の反映によって、はじめて生きたものになるのです。

「物質」は展開して、知性になり、心になり、感覚器官にさえなっていきます。

けれども”知る能力”は、変化しない「魂」から得るのです。
「魂」は変化しませんが、この展開に影響を及ぼすのです。

ヴェーダンタ哲学では、この考えは受け入れられていません。
なぜならヴェーダンタ哲学のブラフマンは、物質と心の両方の働きを同時に備えているからです。

これを沖聖師の「生命」の哲学と比べますと、沖聖師の哲学はヴェーダンタ哲学に近いことがわかるでしょう。

一人ひとりが生命の現れ

けれども沖聖師の哲学はヴェーダンタ哲学とは一つの違いがあります。

ヴェーダンタ哲学では、ブラフマンは実在ですが、展開すなわち私たち自身、私たちの心、私たちの体はすべて現象であって、実在ではないのです。

展開は、ブラフマンの現実性に比べて、何か低い、あるいは非現実的なものです。
けれども沖聖師の哲学は違います。

私たちは全て、生命が実在であるように、実在なのです。
生命なくして私たちは存在することはできません。

ですから、沖聖師はすべての人の面倒をみられたのです。
なぜなら、すべての人が実在の生命であり、そして生命は完全なままに全ての人の中に現れているからです。

ヴェーダンタ哲学では、健康は消極的にとらえられ、健康を大切にしません。
なぜなら、私たちの中に生命が現れていることを、私たちの中に生命の実在を信じないからです。

この点が、ヴェーダンタ哲学では、と沖聖師の哲学の根本的な違いです。

パタンジャリのヨガとの違いも分かると思います。
パタンジャリのヨガでは「魂」は離れていて、ただ自分を反映しているだけで巻き込まれていません。
ですから健康に留意しないのです。

一人ひとりを大切にする

けれども沖聖師の考えは、起こっている全てのことは生命の働きだから、切り離すことはできないということです。

沖聖師の哲学では、私たちの生命の全て、生命の現れは全て実在であり、実在の生命なのです。
けれどもヴェーダンタ哲学では、実在の生命ではなく、仮の姿なのです。

沖聖師の考えでは全ての起こっている現象は実在ですが、ヴェーダンタ哲学では全ての起こっている現象は非現実なのです。

この哲学的違いから、個々人あるいは個々人の体を大切にするかしないかの違いが出てくるのであり、それぞれ一人ひとりの人間に起こる病気やその他の現象をどういう風に扱うかということに違いを生ずるのです。

合掌



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